剛柔流武術館は、流祖・宮城長順先生の遺訓
「人に打たれず 人打たず ことなきを基とするなり」
を基本理念としています。
武を修行する者は、常に「謙虚」な姿勢で相手に接し、争いをさけ、目的を達成するよう心がけねばなりません。
剛柔流武術館では、日本の伝統文化である剛柔流武術の継承と修行を通して健康な強い体と心を養い、真の人間形成を目指します。さらに次世代を担う青少年の健全育成を図り、もって我が国及び国際社会の発展に寄与することを目的として活動しています。
1860年代後期、東恩納寛量先生が沖縄から中国福建省福州へ渡り、南派少林拳リュウリュウコウ老師の内弟子となり、14年間にわたって中国武術を修行したのが始まりです。
東恩納寛量先生が中国から沖縄へ伝えた武術は、後に「那覇手」と呼ばれ、高弟の宮城長順先生に伝承されて、更に科学的、かつ普遍的合理性が加えられ体系化されました。
宮城長順先生が究めた武術は、1930年(昭和5年)に中国福建少林拳白鶴門の伝書「武備志」所載の拳法八句にある「法剛柔呑吐」から「剛柔流」と命名されました。
剛柔流の真髄は、宮城長順先生から高弟の新里仁安先生(第二次世界大戦で戦死)に、戦後は関門弟子(最後の正式な弟子)の宮城安一先生(剛柔流武術館 初代宗家)に受け継がれ、現在は加藤友幸先生(剛柔流武術館 二代宗家)に伝授、継承されています。
剛柔流武術館は、沖縄に正伝する剛柔流を継承する正統な会派であり、
その無形文化を系譜によって保存伝承しております。
継 承
1853年
1853年3月10日、那覇市西村に生まれる。1867年~1868年頃、中国福建省福州へ渡り、南派少林拳リュウリュウコウ老師の内弟子となり修行する。リュウリュウコウ老師から絶大な信頼を受けた東恩納寛量先生は、さらに研鑽し、武名は、武術界隅々までいきわたった。帰国後、那覇手の主流となって普及に尽力し、次第に空手(唐手)中興の祖、或いは「那覇手の始祖」として仰がれるようになった。東恩納寛量先生は、那覇手に一生を捧げられ1915年(大正4年)63才で逝去された。
1888年
1888年(明治21年)4月25日、那覇市東町に生まれる。1902年(明治35年)那覇手の大家・東恩納寛量先生に師事、修行を重ねてその奥義を窮め、那覇手を継承する。更に、1915年から三度にわたって中国福建省福州へ渡り、中国拳法を研鑽する。寛量先生亡き後も、武術の探求と研鑽に努め、1930年(昭和5年)自らの武術を「剛柔流」と命名し、その普及に尽力された。「剛柔流の流祖」宮城長順先生は、生涯を武一筋に生きられ1953年(昭和28年)10月8日65才で逝去された。
1931年
1931年(昭和6年)2月9日、那覇市上泉町に生まれる。1948年(昭和23年)流祖・宮城長順先生に師事、晩年の愛弟子として修行に励まれ、剛柔流のすべてを受け継がれた。長順先生が逝去されてからは、「関門弟子」として流祖の教えを忠実に守り、精進を重ねて剛柔流の真髄を究められた。 剛柔流武術館初代宗家・宮城安一先生は、正統なる剛柔流武術の保存、継承に努められ、2009年(平成21年)4月28日79才で逝去された。
1951年
1951年(昭和26年)12月5日、東京都世田谷区に生まれる。1967年(昭和42年)、剛柔流・石神昭三師範の門を叩く。後に、東恩納盛男師範から指導を受け剛柔流を習得する。その後、宮城安一先生の助言を得て、東恩納師範から離れ独自の道を歩むようになる。1994年、宮城安一先生に師事し正式な弟子となり修行を重ね、1998年に師より剛柔流奥儀皆伝を授かる。2002年、範士十段を允許され、2007年に宮城安一先生の正統な後継者として認められた。現在は師の遺志を継ぎ、伝統文化である剛柔流の保存、継承と普及発展に努めている。